ひと言集

文字サイズ:

画像の説明

平成28年6月30日

7月のことば

2016年7月の画像

「ありがとう」

 「あ、無理?」と思う間もなく重そうな大きなリュックを床に下ろして狭い座席に座り込んだ。20歳前後の青年。手には1メートルくらいの長い荷物二つとビニールの袋を二つ持っていた。それらを立てたり膝の上に乗せたりしているが今一つ落ち着かない様子。周囲の人は、ほぼ全員スマホをいじっていてその青年のことは気にしていない。19時過ぎの地下鉄電車の中である。

 10数か所の駅で人の乗り降りが繰り返された。車中は次第に人が少なくなっていった。次は終点というところで青年はリュックを開けた。途端に眼鏡が飛び出し青年の右足の脇に飛んだが青年はしきりとリュックの中を探っていた「あ、眼鏡が落ちましたよ」「はあい」と青年から「分かっていますよ」というような返事が戻ってきた。「余計なことを言ってしまった」と後悔した。終点で降りるとき「一つ荷物お持ちしましょうか?」と声をかけようと思っていたが「余計なことはしない」と先に電車から降りた。次の電車に乗り換えるため急ぎ足で駅構内を歩きエスカレーターに乗ろうとしたら「さっきは眼鏡のことありがとうございました」と後ろから声をかけられた。ちょっと振り返って「いいえ」と笑顔を返した。青年は軽く頭を下げた。

 蒸し暑い夕暮れ時、なだらかな長い坂を大きな荷物を持って上って行った。歩道は一人が通れるくらいの狭さだ。上から補助輪付きの自転車に乗った小学校1年生くらいの少年が下りてきた。時折自動車が行き来するので危険な道だが、思わず歩道を空けて車道に出た。よろよろと自転車を運転していた少年が通りすがりに「ありがとうございます」と大きな声で言いながら坂を下りて行った。「なんて可愛い少年だろう」と嬉しくなった。

 「ありがとう」何でもない言葉のようだが、この一言を言うか言わないかで人間関係は変わってしまう。よく話題に上るのが家族会の席で「うちのお姑さんは一寸したことでも“ありがとう”と言うのよ、愛おしくなっちゃう」「うちの母は長い間世話をしているのに1度も“ありがとう“なんて言ったことないわ」と疲れた表情を見せる家族もいる。

 ある家族会で96歳の母親を長いこと世話している息子が「うちの母は“ありがとう”など1回も言ったことがないですよ。何をしてやっても気に入らないらしく文句ばかり言うので参ってしまう」という「お母さんが言わなかったら、こちらから“ありがとう”と言ったらどうでしょうね」と言うと、妻を長年介護している夫が「うちの女房は何にも分からなくなっているけれど、“可愛いね、ありがとう”と折に触れて話しかけていますよ」と話した。徘徊やケアへの抵抗など大変な時期があったが、今は歩行もできず何もわからない状態だが夫が声をかけると目を向けてくれる「ありがたいですよ」と語った。